しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
なぜなら、「関ヶ原の戦い」 があったのは戦国時代の終わり頃であり、「織田信長」 や 「豊臣秀吉」、「武田信玄」 や 「上杉謙信」 などの戦国時代のヒーローと言える人は、すでにみんな死んだ後だからです。
しかも、関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑であり、おまけに戦闘が1日で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられません。
ゲームでも 「信長の野望」 シリーズを含め、関ヶ原を扱ったものは少ないですね。
「小説」 や 「歴史書」 では取り上げられる機会が多いのですが・・・ 内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
そこで、このページではそんな 「関ヶ原」 の戦いと経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
(また、「戦国無双」 や 「戦国BASARA」、「鬼武者」 シリーズなど、戦国時代を題材にしたゲームに登場する身近な武将をピックアップしながら説明しています。
武将の顔の画像は 「信長の野望 オンライン」、および 「信長の野望 天下創世」 のものです)
「関ヶ原の戦い」 にまつわる時代背景を知る、参考にして頂ければと思います。
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「関ヶ原の戦い」 の戦闘は1日で決着が着きましたが・・・
そこに至る過程は結構長く、色々な出来事が積み重なっていきました。
戦国時代の後期・・・ 豊臣秀吉 がすでに天下を統一した後の 1598 年、その 豊臣秀吉 の死によって、「関ヶ原」 への経過が始まることになります。
すでに 豊臣家 によって天下統一されていた日本でしたが、その後に朝鮮半島に攻め込んだ 「朝鮮出兵」 などがあり、戦乱の時代はまだまだ継続していました。
秀吉の死後に 豊臣家 で日本を運営することになったのは、「豊臣五大老」 と 「豊臣五奉行」 と呼ばれる人たちです。
この 「五大老」 と 「五奉行」 は、よく混同されたり間違われたりするので注意です。
(実際、当時もよく間違って認識されていたりしたようです)
「豊臣五大老」 は、各地の有力な大名によって構成された 「権力者の代表」 であり、以下の5名です。
・関東を支配する五大老の筆頭、「徳川家康」。
・北陸地方を支配する秀吉の親友であり盟友 「前田利家」。
・中国地方の西部を支配する大名 「毛利輝元」。
・中国地方東部を支配し、子供の頃から秀吉に可愛がられていた 「宇喜多秀家」。
・越後の大名 上杉家 の後継者 「上杉景勝」。
(宇喜多秀家 の前に 小早川隆景 という人が五大老になっていましたが、関ヶ原の戦いにはあまり関係ないので省いています)
「豊臣五奉行」 は 豊臣家 の中で実際に政務を取り仕切っていた 「豊臣家の上層部」 であり、以下の5名です。
・筆頭が 「石田三成」、以下 「増田長盛」 「浅野長政」 「前田玄以」 「長束正家」。
さて、この五大老&五奉行の中で、関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが、
それぞれの筆頭である 「徳川家康」 と 「石田三成」 です。
豊臣秀吉 の死後、まず行動を起こし始めたのは 徳川家康 です。
彼はそれまで 豊臣家 の中で勝手に行うことを禁止されていた、各地の大名や家臣への 「婚姻(結婚)の斡旋」 や 「知行(領地)の授与」 などを、五奉行などに相談することなく独断で行うようになります。
もちろんこの行動に 「豊臣五奉行」 のメンバーは怒り、特に五奉行の筆頭 石田三成 は 家康 を非難するようになるのですが・・・
(徳川家康)
しかしこの 「石田三成」 という人、かなりの嫌われ者でした。
彼はもともと 豊臣秀吉 の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、秀吉の命令を各地に伝達する役目を持っていました。
そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。
また、武将の失敗や失態などを、情けや釈明を無視してありのままに報告し、それに対する処罰を告げ、それでいて自分は 豊臣家 のトップにいる彼は、そういう役目だから仕方がないのですが、とにかく多くの武将から陰口を叩かれまくる存在でした。
(石田三成)
おまけに 「官僚(政治家)」 ですから、本人が合戦で戦って傷つくこともありません。
この点も、実際に戦場で戦っている 「武断派」 の武将からは、嫌われる点でした。
この影響で、豊臣秀吉 が生きている頃から豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする 「官僚派(文治派)」 と、合戦で戦っている 「武断派」 の間で内部対立が発生していました。
この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因となっていきます。
秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは非難されるべきものでしたが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていましたから、武将たちはそれぞれ「家康派」 と 「三成派」 に分かれていく事になります。
しかし、それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした。
なぜなら、豊臣家の中には仲裁役として活動していた 「前田利家」 がいたからです。
前田利家 は 豊臣五大老 の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していました。
また、彼自身は 徳川家康 の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行 寄りの立場として、武断派 の武将の暴発を抑える役割も果たしていました。
(前田利家)
しかし、時は流れ・・・ 翌年 1599 年3月。 仲裁を行っていた 「前田利家」 も死去します。
そして仲裁役を失った豊臣家の内部分裂はどんどん激化、ついに大事件が起こってしまいます!
「石田三成 暗殺未遂事件」 です!
豊臣家の武将として活躍しており、そして 石田三成 と対立していた 豊臣家 の武断派の武将7名が結託、石田三成 を亡き者にしようと襲撃を計画したのです!
その武将は 「福島正則」、「加藤清正」、「黒田長政」、「藤堂高虎」、「細川忠興」、「加藤嘉明」、「浅野幸長」 という名の、戦国の名立たる名将ばかりです。
(記録によっては、「池田輝政」、「蜂須賀家政」、「脇坂安治」 という人も含まれる場合があります)
しかしその襲撃を 石田三成 は事前に察知、襲撃前に姿を晦まします。
このとき、石田三成 は 徳川家康 の屋敷に逃げ込んだとも、家康 の子 「結城秀康」 に仲裁を頼んで城や自分の屋敷に逃げたとも言われていますが・・・
いずれにせよ、ライバルである 徳川家康 がこの事件の仲裁をおこなって事なきを得ました。
武断派 の武将としては、石田三成 の対抗者である 家康 に 「そんな事はやめときなさい」 と言われると、断ることが出来なかったからです。
ですが、この事件が起こった事で 石田三成 は謹慎処分となり、一時的に失脚してしまいます。そして事件を解決させた 徳川家康 の影響力はさらに大きくなることになりました。
同時に、豊臣家の 「官僚派」 と 「武断派」 の分裂は、もはや修復不可能なほどに決定的なものとなってしまったのです。
わかりやすい関ヶ原の戦いより抜粋)
続きはわかりやすい関ヶ原の戦 いにて
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