2012年05月23日

戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた

天下分け目の戦い 「関ヶ原の戦い」。
sekigahara-n1.jpg
しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
なぜなら、「関ヶ原の戦い」 があったのは戦国時代の終わり頃であり、「織田信長」 や 「豊臣秀吉」、「武田信玄」 や 「上杉謙信」 などの戦国時代のヒーローと言える人は、すでにみんな死んだ後だからです。

しかも、関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑であり、おまけに戦闘が1日で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられません。
ゲームでも 「信長の野望」 シリーズを含め、関ヶ原を扱ったものは少ないですね。
「小説」 や 「歴史書」 では取り上げられる機会が多いのですが・・・ 内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
そこで、このページではそんな 「関ヶ原」 の戦いと経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
(また、「戦国無双」 や 「戦国BASARA」、「鬼武者」 シリーズなど、戦国時代を題材にしたゲームに登場する身近な武将をピックアップしながら説明しています。
武将の顔の画像は 「信長の野望 オンライン」、および 「信長の野望 天下創世」 のものです)
「関ヶ原の戦い」 にまつわる時代背景を知る、参考にして頂ければと思います。

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「関ヶ原の戦い」 の戦闘は1日で決着が着きましたが・・・
そこに至る過程は結構長く、色々な出来事が積み重なっていきました。
戦国時代の後期・・・ 豊臣秀吉 がすでに天下を統一した後の 1598 年、その 豊臣秀吉 の死によって、「関ヶ原」 への経過が始まることになります。
すでに 豊臣家 によって天下統一されていた日本でしたが、その後に朝鮮半島に攻め込んだ 「朝鮮出兵」 などがあり、戦乱の時代はまだまだ継続していました。
秀吉の死後に 豊臣家 で日本を運営することになったのは、「豊臣五大老」 と 「豊臣五奉行」 と呼ばれる人たちです。
この 「五大老」 と 「五奉行」 は、よく混同されたり間違われたりするので注意です。
(実際、当時もよく間違って認識されていたりしたようです)


「豊臣五大老」 は、各地の有力な大名によって構成された 「権力者の代表」 であり、以下の5名です。

・関東を支配する五大老の筆頭、「徳川家康」。
・北陸地方を支配する秀吉の親友であり盟友 「前田利家」。
・中国地方の西部を支配する大名 「毛利輝元」。
・中国地方東部を支配し、子供の頃から秀吉に可愛がられていた 「宇喜多秀家」。
・越後の大名 上杉家 の後継者 「上杉景勝」。
(宇喜多秀家 の前に 小早川隆景 という人が五大老になっていましたが、関ヶ原の戦いにはあまり関係ないので省いています)
「豊臣五奉行」 は 豊臣家 の中で実際に政務を取り仕切っていた 「豊臣家の上層部」 であり、以下の5名です。
・筆頭が 「石田三成」、以下 「増田長盛」 「浅野長政」 「前田玄以」 「長束正家」。


さて、この五大老&五奉行の中で、関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが、
それぞれの筆頭である 「徳川家康」 と 「石田三成」 です。
豊臣秀吉 の死後、まず行動を起こし始めたのは 徳川家康 です。
彼はそれまで 豊臣家 の中で勝手に行うことを禁止されていた、各地の大名や家臣への 「婚姻(結婚)の斡旋」 や 「知行(領地)の授与」 などを、五奉行などに相談することなく独断で行うようになります。
もちろんこの行動に 「豊臣五奉行」 のメンバーは怒り、特に五奉行の筆頭 石田三成 は 家康 を非難するようになるのですが・・・
(徳川家康)

しかしこの 「石田三成」 という人、かなりの嫌われ者でした。
彼はもともと 豊臣秀吉 の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、秀吉の命令を各地に伝達する役目を持っていました。
そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。
また、武将の失敗や失態などを、情けや釈明を無視してありのままに報告し、それに対する処罰を告げ、それでいて自分は 豊臣家 のトップにいる彼は、そういう役目だから仕方がないのですが、とにかく多くの武将から陰口を叩かれまくる存在でした。
(石田三成)
おまけに 「官僚(政治家)」 ですから、本人が合戦で戦って傷つくこともありません。
この点も、実際に戦場で戦っている 「武断派」 の武将からは、嫌われる点でした。
この影響で、豊臣秀吉 が生きている頃から豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする 「官僚派(文治派)」 と、合戦で戦っている 「武断派」 の間で内部対立が発生していました。
この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因となっていきます。
秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは非難されるべきものでしたが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていましたから、武将たちはそれぞれ「家康派」 と 「三成派」 に分かれていく事になります。
しかし、それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした。
なぜなら、豊臣家の中には仲裁役として活動していた 「前田利家」 がいたからです。
前田利家 は 豊臣五大老 の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していました。
また、彼自身は 徳川家康 の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行 寄りの立場として、武断派 の武将の暴発を抑える役割も果たしていました。
(前田利家)


しかし、時は流れ・・・ 翌年 1599 年3月。 仲裁を行っていた 「前田利家」 も死去します。
そして仲裁役を失った豊臣家の内部分裂はどんどん激化、ついに大事件が起こってしまいます!
「石田三成 暗殺未遂事件」 です!
豊臣家の武将として活躍しており、そして 石田三成 と対立していた 豊臣家 の武断派の武将7名が結託、石田三成 を亡き者にしようと襲撃を計画したのです!
その武将は 「福島正則」、「加藤清正」、「黒田長政」、「藤堂高虎」、「細川忠興」、「加藤嘉明」、「浅野幸長」 という名の、戦国の名立たる名将ばかりです。
(記録によっては、「池田輝政」、「蜂須賀家政」、「脇坂安治」 という人も含まれる場合があります)
しかしその襲撃を 石田三成 は事前に察知、襲撃前に姿を晦まします。
このとき、石田三成 は 徳川家康 の屋敷に逃げ込んだとも、家康 の子 「結城秀康」 に仲裁を頼んで城や自分の屋敷に逃げたとも言われていますが・・・
いずれにせよ、ライバルである 徳川家康 がこの事件の仲裁をおこなって事なきを得ました。
武断派 の武将としては、石田三成 の対抗者である 家康 に 「そんな事はやめときなさい」 と言われると、断ることが出来なかったからです。
ですが、この事件が起こった事で 石田三成 は謹慎処分となり、一時的に失脚してしまいます。そして事件を解決させた 徳川家康 の影響力はさらに大きくなることになりました。
同時に、豊臣家の 「官僚派」 と 「武断派」 の分裂は、もはや修復不可能なほどに決定的なものとなってしまったのです。

わかりやすい関ヶ原の戦いより抜粋)
続きはわかりやすい関ヶ原の戦 いにて










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2012年05月21日

硫黄島玉砕

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斬り込みを行った日本兵の最後

昭和二十年二月下旬四百九十五隻の艦船が硫黄島に集結した。上陸部隊は七万五千名。これに対し硫黄島守備隊の日本兵は、二万一千名ほど。米軍司令官は「これだけの兵力なら五日で攻略できる」といった。しかし地下陣地を構築し、持久戦をもくろんだ守備隊は、三月二十五日のバンザイ突撃まで、決死の抵抗を続けたのである。米軍の死傷者は二万八千人を越えていた。


硫黄島守備隊の証言



上陸前三日間、艦砲射撃と航空機の爆撃が続いた。この攻撃で、山の形が変わっていた。私たちは必死の抵抗を続けたが、次第に追いつめられていった。壕にいると、マシンガンを撃ちながら、米兵が入ってきた。倒れたふりをして反撃しようするとあわてて逃げだし、こんどは火炎放射器と爆薬で攻撃してきた。その他にもガソリンを流し込んで火をつけたり、黄燐弾を投げ込んだり、ダイナマイトを仕掛けたりしてきた。私たちは壕から壕へと移動を続けた。



米海兵隊員の証言一



身を守る物や隠す物がない岩ばかりの島で砲弾が次々と降り注いできた。その砲撃はきわめて正確で多くの死傷者と精神異常者を出した。日本兵は突然現れて、攻撃してきた。あるとき日本刀を振りかざして、ある海兵隊員に斬りつけてきた。彼は反射的に手を出してさえぎろうとしたが、ひじまで、縦にまっぷたつにさけてしまった。また、日本軍の銃弾により、戦車内部の砲弾が炸裂し、中にいた乗組員は全員ゼリー上の液体と化していた。



米海兵隊員の証言二


我々はあるトーチカを攻撃した際、その中にいた日本兵の死体を隣のトーチカに放り込み、出入り口を塞いだ。その近くを基地として使っていたが、いつからか変なうわさが立ち始めた。出入り口を塞いだトーチカから日本兵の霊がこっちをのぞいているというのである。ちょうど一週間くらいたった頃、そのトーチカがいきなり爆発した。おそるおそる中を調べると、我々が放り込んだ死体のほかにもう一体の死体があった。彼は手榴弾で自殺したようだった。
(太平洋戦争の真実より抜粋)







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2012年05月17日

三国志、諸葛亮孔明 諸葛亮孔明と戦争・人物 三国志、諸葛亮孔明 諸葛亮孔明と戦争・人物

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人生のすべては諸葛亮孔明の人生に詳しく書いてありますが、ここではその最初の部分を載せておきます。ちなみにここでは人物の名前などは太字になっているだけですが、諸葛亮孔明と人生の中ではその人物の紹介文へのリンクとなっています。諸葛亮と孔明を順々にかきましたが意味はありません(笑)。
司馬徽(しばき 別名 水鏡先生)に臥龍(がりゅう)または伏龍(ふくりゅう)と称されました。 諸葛亮は次男で、兄の名は瑾(きん)といって洛陽(らくよう 漢の都)の大学で学んでいる秀才でした。弟は均(きん)といいました。ふたりともきんです(笑)。父親が役人だったので比較的恵まれた家庭でした。母親は早くに亡くなり、父珪(けい)は後妻をもらいました。その父も孔明が十歳になったころこの世を去りました。そんな時兄の瑾が洛陽から帰ってきました。瑾は 黄巾賊(こうきんぞく)の大乱が洛陽にまでおよんできたことをつげました。このため諸葛一家は江東(こうとう 地方名)の叔父、諸葛玄(げん) をたよって避難することにしました。自然の猛威などがありましたが、なんとか諸葛一家は叔父の玄のところにたどりつきました。ここで諸葛亮は半年ほどすごしました。ところが叔父の玄は劉表(りゅうひょう)の招きで 荊州(けいしゅう 地方名)へ行くことになりました。この荊州は三国時代の特に重要な地で、この地をめぐってたくさんの戦がおこりました。しかし兄の瑾は長義母をつれて孫策(そんさく) のもとで大きくのびようとする呉にむかいました。 荊州での生活が一年つずいたころ、叔父の玄にかわって予章(よしょう 地名)を治めていた周術(しゅうじゅつ)が亡くなったため、叔父の玄はふたたび予章の太守(一定の領地を治める人)に命じられました。ところが任地につくと、そこには漢朝から予章の太守に任命された失晧(しゅこう)というものがきていました。お互い太守になりたかったので戦争になりました。しかし、叔父の玄は戦に敗れました。そのため、玄と孔明たちは荊州の劉表(りゅうひょう)のもとにみをよせました。 玄は戦場で死んだ可能性もあります。その後諸葛亮は荊州ですごし、十七歳のとき大学者、石とうの門をたたきました。ここには石とうの名を慕って各地からすぐれた門人が集まっていました。 徐庶(じょしょ)もその一人でした。 ここで孔明は頭角をあらわしました。その才は群をぬき、二十歳になるころにはそこで学ぶこともなくなっていました。 諸葛亮はその年で弟の均とともに、隆中(りゅうちゅう 地名)の山中にある草廬(そうろ)にひきこもって、農耕に従事しながら臥龍(伏龍)先生としょうして、晴耕雨読の生活をしはじめました。それ以後孔明のところをたずねてくる友人はすくなくなりました。たずねてくるものは諸葛亮のおそろしいほどの才能をみぬいたものたちだけでした。またこの頃孔明は結婚しました。相手は河南の名士黄承彦(こうしょうげん)の娘でした。その娘は色は黒く髪は黄で醜い容貌で、「諸葛亮の嫁選びのまねはすまいぞ」といわれるほどでしたが、天文地理兵法に秀でた才女でした。 コーエーの三国無双シリーズでは月英(げつえい)として登場します。

建安十二年(207)徐庶は母が曹操(そうそう)の城に招かれていたので、母に会うため劉備(りゅうび)のもとから曹操のところへ向かおうとしていました。見送りにきた劉備に徐庶は孔明をたずねるようにいいました。そして劉備は 隆中にいる諸葛亮をたずねてきました。しかし孔明はでかけていて草廬にはいませんでした。しかし劉備はあきらめません。しばらくして、吹雪が吹き荒れる日、諸葛亮在宅とのしらせをうけた 劉備はもういちど孔明をたずねます。しかし、草廬にいたのは弟の均でした。 劉備はまたしても諸葛亮にあえず、どうして自分は孔明と縁がうすいのかとなげきながら、自分の思いを書い手紙を弟の均にあずけてかえりました。それからしばらくして劉備はまた孔明をたずねました。そして今度は諸葛亮は草廬にいました。しかし孔明は昼寝をしていました。ですが劉備は起こそうとせずに待っていました。 諸葛亮が起きて、ようやく劉備と孔明は対面しました。劉備は、 孔子(こうし 儒教の祖)の例などをだし、天下万民のために立ち上がってくださいとたのみます。すると 諸葛亮は有名な天下三分の計を劉備にはなします。大きくなりすぎた魏の曹操を討つのは不可能。そして三代にわたって発展してきた呉を奪うこともまた不可能。ならば、そのどちらにも属していない荊州と益州(えきしゅう のちの蜀)に勢力を興し国を三つにわけ、その後、曹操の野心を砕く。これが孔明の天下三分の計でした。これを聞いた 劉備は「これからもそばで私にお教えください。」といいます。しかし諸葛亮は初めことわります。しかし劉備の国を思う姿に心をうたれ、ついに劉備に協力することをきめ出廬(しゅつろ)しました。これが三顧(さんこ)の礼です。このとき孔明は二十七歳でした。しかしこの話は三国志演義の話で、国の行く末を案じた諸葛亮が自ら劉備を訪ねたという話もあります。続きは諸葛亮孔明の人生で。
初心者にもわかる諸葛亮孔明より転載)








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